2015年 12月 16日
円空仏はお好き? |
友人のHさんに質問された。「円空仏を彫ってみたいのだけど、難しいでしょうか?」
う~ん、難問だ。技術的にやさしいか難しいか以前に、この問い自体が難問だ。他の人たちからも、円空を彫らないの?とよく聞かれます。つまり、みんな円空が好きなんだなあ。
あ、私ももちろん大好きです、人並み以上に。あの不思議な微笑あるいは憤怒の像の前で、何時間でも対面していられそうな気がする。自分で仏像を彫りたいと思い始めたとき、最初にイメージしたのも、いま思い出したのだけど、円空でした。だけど実は、今まで一度も彫っていません。彫りたいと思わないわけではないけど。これからもたぶん彫らないんじゃないか、彫れないんじゃないか、と思う。技術的に難しいか易しいかということではなく。
なぜって、いまはこんなふうに考えている。
円空仏は円空さんというあの方が彫ったからこそ円空仏なのであって、余人がマネしてもそれは決して円空ではない。あたりまえだけど。イミテーションという意味では、飛鳥ふうも定朝ふうも運慶ふうや国宝の模刻をやっても、みなイミテーションには違いないけど、円空のイミテーションに限ってはイミテーションの次元が違う、という気がしてしまうのです。
周知のとおり仏像には守るべき決まり、儀軌というものがある。円空仏ではそんな約束事はほとんど無視されている。いや、超越している。それがいいか悪いかではなく、技術がどうこうではなく、上手いか下手かでもなく(もちろんめちゃくちゃスゴイんだけど)、とっくのとおに別の次元にいる。つまり、
これは円空さんという、ひとりのあの方だけが切り拓いた「芸術(という言葉はここにはそぐわないと思いつつ)世界」なのだ。他人があの形や雰囲気だけを、たとえいくら巧みにマネることができても、決して円空仏にはなりえない。したがってワタシはやらん、といまは固くこころに決めているのです。 と、これじゃHさんの問いへの答えになってないけど、まあいいか。
by tekkyu-butsuzo
| 2015-12-16 16:50
| 日々是ぶつぶつ